芦屋の静寂と、失いたくない記憶のこと。
家の近くにありながら、何十年も足を踏み入れることのなかった「谷崎潤一郎記念館」。
今日、ふと、その扉を開けてみました。
静かなお庭に響く、獅子おどしの「カコン」という乾いた音。
流れる水の中を、ゆったりと泳ぐ鯉たち。
日々の喧騒と、両親の介護に向き合う慌ただしさの中で、少しだけ呼吸を忘れていた私の心が、その静寂に触れた瞬間にふっと安らいでいくのを感じました。芦屋の街の奥深さと、変わらない美しさに救われたような、そんな午後でした。
館内の静かな展示室へと足を進めると、そこには時が止まったかのような空気が流れていました。ふと目に飛び込んできたのは、一つの緑の陶器でした。それを見た瞬間、私は思わず立ち止まってしまいました。
それは、先月まで祖父母の家にあったものと、まるで同じものだったからです。
家を売却し、たくさんの思い出と共に手放さなければならなかった、あの緑の陶器。
同じものに出会えた喜びと、溢れ出すような懐かしさで、胸がいっぱいになりました。あの日、一つひとつ荷物を整理しながら感じた寂しさの裏側に、こんなにも温かな記憶が眠っていたのだと気づかされたのです。その「緑」の輝きは、私にとって失われたものではなく、形を変えてずっと心の中に残り続けるものなのだと、優しく教えてくれているようでした。
その「懐かしさ」は、私の心の中にあるたくさんの記憶を呼び起こしました。
祖父母が愛したあの家の空気。みんなが元気だった頃、いつも家族の中心で寄り添ってくれていた愛犬。どんなときも、ただそこにいるだけで私たちを温めてくれた、かけがえのない存在。
そして、私の胸の中で今もずっと輝き続けている、私の息子。
彼らから受け取った愛は、たとえ形や姿が変わってしまっても、決して消えることはありません。
今、私は両親の介護という、人生の新しい季節の中にいます。
離れて暮らす両親の元へ通う日々は、時に忙しく、立ち止まりたくなることもあります。けれど、それぞれの場所で穏やかに過ごす二人の顔を見に行けること、そして二人が笑顔で会える時間を手助けできることが、今の私にとって一番の宝物です。
私がこうして前を向いて「Ashiya Bijou」を始めようと思ったのは、あの緑の陶器が教えてくれたように、「受け継いだ想い」を、この先の未来にも繋いでいきたいから。
両親の尊厳を大切に守りながら、彼らが築いてきた人生の美しさを、私自身がしっかりと受け止めていきたい。そんな願いが、今の私の原動力になっています。
Ashiya Bijouは、決して大きな場所ではありません。
けれど、私が大切にしている「懐かしい記憶」や、愛する人たちから受け取った温もりを、少しずつ分かち合える場所でありたいと思っています。
何か特別なものを売るというよりも、ここに触れた誰かの心が、ほんの少しだけ軽くなったり、温かくなったりするような……そんな場所を目指して。
これからも、両親の介護という現実と向き合いながら、私にできる方法で、小さな物語を紡いでいこうと思います。
夕暮れの芦屋の街を歩きながら、そんなことを考えていました。
今夜は温かいお茶を淹れて、静かに一日を終えようと思います。
どうかこれからも、見守っていてください。


